カシマシレポート

表現をつくって23年。山も谷もありますが、だんだんとおもしろい会社になってきました。きちんとお返事できる自信がなくて、facebookは登録したまま放ってあります。普段お会いできない皆さんにも便りをと思いこの◯山談義を始めることにしました。気まぐれな更新になると思いますが、お付き合いいただけると嬉しいです。 代表取締役 丸山 典久

広大な大地に拡がる麦畑。

牧歌的で素敵な景色だ。

 

狭い箱庭。

日本的な凝縮された空間。

 

様々な物が個性を持ち、何らかの情報を発信する。

 

人も個人個人が個の情報を持ち、知ってか知らずか発信する。

 

小生の場合は、天然、開放的、大雑把、テキトウ、イイカゲンってイメージらしく
凝縮感は薄いらしい。

自己分析は随分違うのだが、他者分析が己と違うのは構わないので、
よしとしている。

 

ただ、一つ理解頂きたいと思っている事がある。

『丁寧』には拘りたいと強く念じている事だ。

 

つまり、丁寧に生きたいし、人との関わりも丁寧でありたいと念じている。

 

人からどう見られても構わないのだが、情報を発信する個体として多少とも人様に
影響を与える事が有るならば、『丁寧』って素敵ですよとだけは発信したい。

 

わざと粗野に振舞う10代。

新成人として競争社会に身を置きだした20代。

スピードや量を求められる30代。

丁寧を意識することの増える40代。

個性としての丁寧さが完成しつつある50代。

その先は50代の小生には分からない。

 

ただ、倦むことなく丁寧に生きたい。

 

私の様々な個性が不本意ながら『丁寧』を印象づけないなら、
あまりに残念なのでつぶやかせて頂いた。

読者各位には、「先週は張り切り過ぎて、週末は眠りほうけていたが、月曜になると
シャキっとして金曜まで遮二無二働いた。で、又、週末は死んだように眠った」
なんて経験はお有りだろうか?

 

あるいは、「疾病で療養中だったが、大切なプレゼンがあったので無理に発表
したら、その時だけは痛みも感じずに全う出来た。終わった後に急に痛みを感じた」
なんて事は?

 

恥ずかしながら、小生は多々有ります。

其ればっかりと言ってもいいぐらい (笑)

 

奨励しているのでは有りません。

 

2つのメッセージが有ります。

1つは、そんな類型の人間が居る事。

もう1つは、違う類型の方に、「一度、殻を破ってみませんか?」とけしかけている
のです。

 

前者の類型の方は、性ですから、そのようにしちゃうんです。

良い悪いでは有りません。

 

後者は、概ね慎重で冷静です。

コメントを求めると、「バカじゃないの」と言われそうです。

でも、やってみると中庸が分かるかも知れません。

 

やって、「やっぱ、馬鹿だね」と思えば、やはり根っからの性なんでしょうね。

でも、やったら、「あれ、出来るじゃん」とか、「普段より良かった」なんて事も
有る様です。

 

つまり、一度、バンジージャンプよろしく、やってみたらって事です。

意外にハマることも有ります。

 

そういえば、最近、先輩経営者に頂いた書籍の中で、
「大切なのは実践と思考の飽くなき繰り返しです」って言葉が印象に残りました。

 

世界観を広げるには、やってみる事も重要なようです。

遂に非常に痛いクラスの痛風が襲ってきました。

10年以上前に、更に酷いスーパー痛風を発症しましたが、喉元過ぎれば熱さ忘れるの
例え通り、管理を怠った結果、き・ま・し・た!!

実は半年前に軽い痛風は来たんですが、フェブリク10mg錠(軽めの尿酸値降下剤)だけ
飲んで生活習慣そのままにしてると、その日はキ・マ・シ・タ!!

今日は歩けないので、明日通院してフェブリク20mg錠を処方してもらおう。

で、水分大量摂取と控え目アルコール生活を暫く、多分し・ば・ら・く続ける予定。

祇園界隈の食事処で1Lの水を持っている輩が居たら小生です。

変わることが好きだ。

変わったことも好きだ。

 

普通に安住できない性がある。

あるいは自己顕示欲が強いのか?

 

しかし、他者に自らをひけらかす方では無いと自認している。

しかし、それとて自認であるから、十分に人並み以上にひけらかす性を持っているのかも知れぬ。

 

そういえば、人から非難されると動揺するし、褒められると気分がいい。

実は変わっている訳でもない平々凡々なのかも知れん。

 

でも、新しい試みに心が雀躍するのは事実だ。

 

他者と比較すると、憶測という魑魅魍魎の価値観に苛まれる。

自分が実感する心の様相こそが事実と安心できる。

 

そんな私を、周囲の者たちは、「天上天下唯我独尊」と言う。

意味が違うのでないかと思うが、光栄である。

最近、生きてるうちにアレコレ準備する「終活」なる行動がもてはやされているそう
な。

終活の言葉の意味は置き、葬祭について識者から貴重な意見を頂いた。

識者曰く、「僕は葬祭を好まない。大切な人でも出席したいと思わない。それより、
生きてるうちに会う努力をする」。

唸らされた。

確かに、大切な人なのに1年も音信不通なんて事がある。

恥ずべき事と猛省した。

会えなくなる前に会わないのは痛恨の極みとなる。

昔、某経営者から、「〇山君は老成してるなあ」と言われ、「俺はまだ24だよ。でも、
老獪より良いか」と思ったものだが、ハートはギラギラだったと思い返す。

当時から2倍に余る時間が過ぎて、ハートは落ち着いてきたが、周囲からは逆に
思われる世の不思議。

 

で、今の心境を3句。

足らずが下、余るが並、程々が上。

借りが下、貸しが並、貸し借り無しが上。

悩むが下、考えるが並、囚われぬが上。

 

更に上の老〇な先輩経営者に御小言頂戴せぬよう、痛風を患い山籠り中の
ソロー〇山でした

もう何年前だったかも忘れるほど、久しぶりに発症。

喉元過ぎれば熱さ忘れるの例え通り、対策を怠っていたのが溜まった感じ。

 

定番の目覚めの時に足の親指に激痛が走るヤツで発症。

これまた恒例の親指を着けて歩けない状態。

 

暫くアルコール摂取頻度を落とさないといけない(やめないんかいっ!!)。

まだ、マシといわれるワイン中心にしよう(飲む気マンマンやないかいっ!!)

 

今回、学んだのは、「私は懲りない学ばない生き者だ」って事です。

賢い先輩諸氏を尊敬する。

『生を享け、滅せぬもののあるべきか』は敦盛 (幸若舞)の一節で、かの織田信長が好んで舞ったと伝えられています。


 
昨日、カミュの「異邦人」を読了して後、その一節が脳裏に浮かび、表題「社会性と我がまま」へと思索トリップしてみました。

生を受けて、この世に誕生した、まさにその時から、人は社会に飛び込むわけです。
基本的に父と母が存在して3人の世界から人生が始まる。
自然には一人で子供は出来ないですもんね。
あっ、マリア様は処女懐胎って事になってましたね。

神話は兎も角、人は生を享けてこの世に誕生した時から最小単位の社会である家族の一員になるんです。
ここから、反抗期や思春期を経て、自我を形成・拡大していくようです。
その過程で、自分の頭で認識・思考して、『人間とはなんぞや』『そもそも自分は何者か』と、思索の拠り所を自分自身に求めます。

ここの所が面白い。
生を享けた時に3人だったのが、思索に至り1人になる。
他者の頭で思索することは出来ないですもんね。
物心付いた幼い自分が一人で考えるわけです。
そりゃ、大人の世界である社会が見えなくて当然。
反抗期が有って当たり前です。
ない方が明らかに怖い。

で、小生を含めた読者の皆さんは安心できますよね (笑)。

でも、ずっと反抗期が続くようだと、ただの我がままな大人になっちゃうわけです。
そこで、社会性なる認識が必要になる。

ここの所も面白い。
我がままな自分を認識した上で、世の中には70億もの我がままが在る事を慮る。
でも、他者の頭の中は想像できても理解できない。

つまり、社会性とは、そのような物のようです。
皆、自分が自分に対してだけは誰よりも限りなく理解が容易い。
しかし、本人以外の者は十分な理解は無理で慮るだけ。

では、慮る事が必要か?
「情に棹させば流される」なんて言葉もある。

思い切って社会性を切り捨て、我がままを極めるのも有りか?
そんな種属・・・・・、居た、芸術家や独裁者に見られる属性だ。
それもまたそれはそれ。
友人にも多いし、魅力的な人物もあり、それもまたそれはそれ。

しかし、ユートピアが在るなら、出来るだけ自分以外の者を慮る社会であって欲しい。
思いやりが無いのは、かなり辛い環境に思える。

ここから先の深いところは、賢明な皆さんにお任せして、機会があれば座談会なんぞ出来ればと考える新春です。

物凄い事業欲の起業家たちが功成り名遂げながら、晩節を汚すケースが頻繁なのを
一考しておりましたところ、表題の言葉が浮かんできました。

そこで、『中庸』とは如何なるものかを思惟してみました。

 

物事は中庸を持って最良とす。

偏りは奥浅く、中庸は奥深い。

偏った完成の次段階に中庸の世界が広がる。

生来の中庸は望み難く、偏った完成の後に広大な中庸の世界が広がる。

自己が他者から発生したように、物事の思慮も偏りより生じ他(中庸)へ広がる。

 

最近、インスピレーションが働く時は、最初に言葉が浮かんできます。

その後、その言葉が暗示する概念が湧き上がります。

不思議と瞬時の事です。

その時に書き留めないと、思索は忘れ去られたりします。

まるで、起き掛けの夢のようです。

書き留めるって大事ですね。

お陰で、久しぶりに談義アップ出来ました。

カリフォルニア州の中古品店で2ドルで販売された写真が、米西部開拓時代の無法者
ビリー・ザ・キッドの写真だったそうな。

その価値は、500万ドル(約6億円)なそうな。

 

ビリー・ザ・キッドの写真は有名な立ち姿の1枚だけだったのが、
このクロッケー中の小さな写真(10×13センチ)が加わり2枚になったそうな。

1枚目は、2010年に230万ドル(約2億7000万円)で売買されたそうな。

 

私なら100ドルでも欲しくないが、転売目的なら意味が違ってくる。

自分が認める価値と社会通念上の価値、あるいは商業活動上の価値、
直截には貨幣価値は甚だしく隔たる事が在る訳で・・・。

 

何ともかんとも、通念とはおかしなモノです。